代表取締役 木村政市プロフィール <捨てられるエンジンの話>

そこにあったのは叫び。受けとめた心
 鉄と油の匂いが混じった暗い瓦礫の中で、彼はいました。何故、ここにいなければいけないのか?
まだ、悠々と大地を走り回っていられるはずなのに、と思いながら・・・。あり余るパワーを残しながらも、「ハイ、君の役割は終わりね」と言わんばかりに、お払い箱にされた無念の悲しみが、ポツンと置かれた姿から、にじみ出して止まりません。
 彼の名前は、エンジン。ガッシリとした身体からわき出るエネルギーで、日本国中を東奔西走。人やモノを運び、時には悲しい風景に合いに出かけていく。自分の使命が思い切り果たせる幸せな時間を過ごしてきました。
  それまでの走行距離10万キロメートル。この世に生み出された時点では、30万キロメートルの耐用走行距離の能力を持っていたので、力は、まだ3分の1しか使っていません。しかも、2年に一度は必ず車検という厳しいチェックを受け、体調は万全です。
「まだまだ大丈夫!」彼の叫びが聞こえます。


リサイクルという答えを見つけました。
 黙っていれば、ただのスクラップとなってしまうエンジンの運命。けれど、捨てられるにはあまりにも早すぎるのじゃないか。もっともっと、生かしてあげたい!ならば、エンジンをリサイクルしていけば、資源の有効利用にもなるし、価値のある仕事ができるのではないだろうか?そう感じて、私たちが取り組み始めたのが、ユニコのビジネスなのです。
 廃棄処分になった車から取り出されたエンジンたちと向きあうのは、何とも言えない複雑な心境でした。使えるものを大切にしない現在の社会への疑問。捨てられるエンジンに、活躍の場を与えてあげられることへの喜び。吹き返したエンジンの命を、どこの誰が活用してくれるのだろうという不安。もしかすると、ユニコがしようとしていることは、誰にも受け入れられないかも知れないのです。けれど、ひとつひとつのエンジンを点検していくにつれて、私たちの行く先は、決まっていったのです。ユニコは、このエンジンたちと共に生きていこう、と。


エンジンたちの味方が笑顔で待っています。
 日本全国からユニコに集まるエンジンたちの数は、一日に50台から100台。はるばる九州や広島、名古屋などからトラックに揺られ、かつぎこまれてくるのです。トラックから降ろされたエンジンが最初に対面するのは、ユニコのエンジニアたち。エンジンのことなら何でもわかる、いわば、エンジンのドクターです。走り続けたエンジンたちの状態は、実にさまざま。
見るからに元気そうで意欲満々だったり、ちょっと疲れぎみだったり。なかには、傷ついてボロボロになっていて、手当てが必要なものもいます。それらのエンジンたちを、ひとつひとつ丁寧に検査し、これから活躍できるようにベストの状態にしていくのが、エンジニアたちの腕の見せ所です。

復活の背景にはやさしい手がありました。
 エンジンというのは、見かけはゴツゴツしているのですが、部品が一つでも欠けていたり、また、ある部分だけが擦り減っていたりすると、なかなか本来のパワーを発揮できません。デッカイずう体のくせに、とても繊細なのです。そんな時、エンジニアたちは、彼らを抱え、ひざを突き、背中をまるめて、弱っている部分を直していきます。コツコツと、手間と時間のかかる仕事です。心底、エンジンを愛していなければ出来ないことだと思います。
 時には、型が古いばかりに活躍できないエンジンもやってきます。そんな場合は、新しい部品と交換してあげたり、他の車からの代替になりそうな部品を探し、エンジニア自身が鉄を削って作っていくという、とても巧妙な改良も加えたりします。こんなふうに、いくつもの手を加えていくことで、エンジンは蘇っていきます。



備前から世界へ。ユニコのエンジンが実力を発揮します。
 ユニコのエンジンたちが出発していくのは世界中の国です。中近東、東南アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ・・・。
数え切れない国の人々が、日本の、岡山の、備前のユニコで命をそそがれたエンジンを、首を長くして待っています。
考えると、ちょっと不思議です。経済力がない国では、新品の自動車など手に入れることができません。使い捨てなど考えられないことなのです。性能がよく耐久性も高い日本の車のエンジンは、宝物と同じ。
 また、経済力のあるヨーロッパやアメリカですら、モノを大切にする文化が、昔から浸透しているため、日本の中古エンジンは人気があります。彼らは、エンジンを寿命がくるまで使い果たし、ボディが丈夫なら、中古のエンジンを乗せ替えて使うことも珍しくありません。そんな国々の人々が、「日本のエンジンのなかでも、‘ユニコのエンジン’が欲しい」と言って指名してくれることは、私たちにとっては、最高の賛辞です。

チャンスに賭けた人生。信じることから始めました。
 社長の夢は、建築設計士になることでした。だから、最初の就職先は設計事務所。自分で描いた設計で、自分の家を建てたかったのです。ところが、そこでは設計よりも折衝力を見込まれて、銀行や取引先との話し合いに借り出されることがほとんど。そのうち、社長も設計の才能よりもビジネスの方が向いていると悟り、実家の手伝いをすることになったのです。それが、ユニコの前身である木村商店。船や自動車のスクラップを扱う会社でした。家を継いだとはいえ、社長の本音は、独自のビジネスで事業を拡大したいと思っていたのです。がむしゃらに仕事をしながら、情報を収集しチャンスを狙っていました。そんなある日「中古エンジンを海外へ輸出してはどうだろう?」と社長に閃きが走ったのです。エンジンならそれまでの仕事とかけ離れていないし、中古のエンジンを必要とする人もいるだろう、と。でも周囲の人は大反対。「そんなものは売れるわけがない」あきれた声を幾度となく耳にしました。当時、中古エンジンを海外へ輸出する企業は少なく、ほとんど人に知られていなかったのです。けれど、社長は信念を持って取り組みはじめました。社長35歳。これがユニコのスタートラインです。


戦って勝つために、努力は惜しみません。
 従業員を含めて、たった3人からのユニコのスタートです。社長が、まず全力を傾けたのが、中古エンジンの収集でした。売るものがなければ、商売はできません。社長はくる日もくる日も日本全国の部品解体業者を回りました。自動車の部品ばかりでエンジンを取り扱っていない業者には、 積極的に仕事の提案をし、一軒一軒、エンジンを扱えるように取引ルートを独自で開拓していったのです。そして、一方では、 中古エンジンを海外へ販売してくれる商社も探していきました。その時に社長が商社に望んだのが、できるだけ多くの国の人に販売して欲しいということでした。エンジン一つでも、世界とコミュニケーションできる可能性を広げたいと考えたのです。時には不眠不休でエンジンを運び、洗浄し、梱包し・・・。必死になって突き進んできました。そんな努力が功を奏してか、ユニコのビジネスは、急速に発展して行ったのです。

世界に広げるユニコの夢。新しい一歩を踏み出そう。
 時代の流れが、リサイクルの方向に向かっていたことも、幸いしました。丁寧な点検と、確実な納期が信頼を生み、中古エンジンを取り扱う世界の国々の業界で、ユニコの名前は広まっていきました。今では、外国のバイヤーが、直接ユニコに訪れるというのも、ごく普通の風景になっています。
 ビジネスの成功が喜びであるのはもちろんなのですが、ユニコが最もうれしく思っているのは、岡山の備前の町から、世界の人々に「よろこばれる」 仕事を広げていけるようになったことです。これからは、もっともっと、世界の一人ひとりに繋がるビジネスを展開していきたい。 それが、現在のユニコの考えです。
 世界が必要としている商品は、中古エンジンだけではないはずです。他の新しい“何か”を提案していきたいと考えています。地球サイズの広がりのある事業展開。それが、これからのユニコの目標です。

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